『シメジ シミュレーション』を読んだ。
夜空は永遠の孤独と深遠の空虚の象徴である。
ある夜、私は自室の机に座っていた。夜空を特に見上げていたわけではないが、こころにまっくろの宇宙を描いていた。私は孤独を感じていた。
どうして私は私なの?
どうして私は私として生まれたの?
他人として生まれていてもおかしくなかったのに。
母でもなく、父でもなく、妹でもなく、飼い猫でもなく、学校の先生でも友達でもなく、私として生まれた。
そもそも「生まれる」って何?
「存在する」って何?
私は他人になれないの、他人と一体にはなれないの、他人を理解できないの……?
「私」の存在意義に対する疑問はすべての光を飲み込む闇だった。疑問は尽きることなくその領域を拡大し、私のまわりを包みこんだ。暗闇に押しつぶされどこまでもちいさくなった私は地球よりもちっぽけだ。夜空に浮かぶちいさな星も私のようにきっと孤独なのだと思った。
NHK「みんなのうた」に、このような曲があったことを憶えている。
主人公は子どもで、家族に囲まれ幸せな生活を送っていた。その日も普段通り、両親に寝かしつけられ、おだやかに眠りについた。
翌朝、主人公が目を覚ますと、街からすべての人が消えていた。家族も街の人も誰もいなかった。
主人公は人の名前を呼び続け、生命の気配がまったく感じられない真っ白な街を一人彷徨う。
幼い私はこの曲にえも言われぬ恐怖を感じ、その日から孤独を恐れるようになった。目が覚めたら自分の周りから人が消えているかもしれないと考えると、夜も眠れなかった。家族も友達も、いつの間にかいなくなっているかもしれない。
私のこころに大きな空洞を空けたその曲は、白昼夢のように曖昧な記憶となってしまった。どれだけインターネットを探してもその曲は見つからないし、知人に尋ねても誰も知らないと答える。本当にそんな曲が存在したのだろうか? 実際にあったのか、ただの夢か。遠い過去はふわふわした光にかき消され、輪郭もわからないほどぼやけてしまった。
もしあの曲を鑑賞したあの記憶が、私しかいない孤独な世界で起きたとしたら、どうしよう……。
「孤独」というテーマもそうだが、「想像力」についても感じるものがあった。つくみず先生の作品群には何やら共鳴できるものが多いと感じてしまう。
私は想像力に乏しい。聴覚的な想像こそ得意なのだが、視覚的イメージを頭の中でつくりあげることはとても苦手だ。アファンタジアである。今でこそ自分の特徴であると納得したものの、咀嚼するまでの長い間、私はその事実に苛まれ続けていた。ついでに夢をあまり見ない体質なことにも寂しさを感じ、不思議な夢の体験を語る人々に惹かれ続けてきた。
想像力に乏しい私にとって、想像によって自由に変えられる世界というものはこれ以上にない魅力であり、同時に恐怖でもあった。「想像・夢の中でなら何にでもなれる」という未知の体験には憧れる一方、そんな世界では私の貧相な空想が露見してしまうと恐れたからだ。
だから、私は想像力を育てることにした。いつか自分の夢見る世界に行けるときが来たとして、つまらない世界になってしまうのは嫌だったからだ。せっかくなら、色とりどりの鮮やかな理想郷を描きたかった。
それは途方もないことだった。活字が苦手で物語を読まなかったから何が面白いのかもわからなかった。絵を描くのも苦手で、仮に鮮やかな世界を思いつけたとしても、それを表現できないという絶望もあった。
長い時間をかけ、私は読書に対する苦手を克服していった。一冊に数か月かかっても、途中で飽きても、気が向いたときに本を読むようになった。何年もかかる緩慢な歩みでも、実感できる成長があった。他の人にはその程度と笑われようと、私にとっては誇るべき一歩だ。
今でも空想の世界を自由に操ることは困難で、他人の想像力について聞くと自分と比較して打ちひしがれてしまうこともある。それでも、私は成長したという事実を誰にも否定することはできない。私が憧れ続け必死に求めてきた想像力はどんなにちいさく弱々しいものでも、他のどんな絵画よりも鮮やかで美しい。
想像力の欠如という暗闇の中でこそ、私の夢は燦然と輝く。宇宙がどんなに広大であろうと、星々は孤独じゃないと思った。